サラサラと淀みなく書面にペンを走らせるネウロは来客の到来を察知したが、その手を止めもせず顔を上げるでもなく、先と変わらぬペースで紙葉をめくった。
来客は当主の執務室の前で立ち止まると、ひとつ、深く息を吐いて軽く握った拳を振り上げた。
「入れ」
拳が木製の重厚な赤黒い扉を叩く前に掛けられた言葉に溜息を吐き、彼の者はドアノブに手を掛けた。
「ネウロ様、気付いていらっしゃるなら最初から開けておいて貰ってもいいんですがねぇ…」
わざわざ手順を踏んで謁見を請おうとした自分を嘲笑うかのような仕打ちを平気で行う若き雇い主を揶揄してゼラが口を開いた。
「ゼラよ、我が輩はまだ貴様の発言を許可してはいないのだが?大体…この我が輩が貴様のために決済の手を止めてまで扉を開けてやる必要などない」
いまだペンを滑らせる手を止めず、両目は絶えず文面を追いながらネウロは答えた。
「ネウロ様…何を怒ってらっしゃるんで?」
「貴様、我が輩が怒っているように見えるのか?」
「ええ、まぁ…不機嫌に見えまさぁ」
「我が輩が本気で怒ったらどんなものか、貴様が一番よく知っているだろうに、忘れたか?」
ゼラが、元々一人では表情の変化が著しく乏しくなるネウロが僅かに饒舌になっていることを指摘すると、ネウロは逆光で蔭った緑柱石の瞳をゼラに向けた。
濁った宝石で射竦められてゼラは背を粟立たせた。初めて言葉を交わした日の幼い彼の凄絶なまでの瞳の鋭強さを思い出して、更にそれがどのように成長して来たのかにも思い至って冷や汗が背中を濡らす感触を自覚した。
「それで、手に入ったのだろうな?」
漸くネウロがペンを置き、ゼラに目を向けた。伺い、見透かすようにネウロのエメラルドの瞳に一筋の光が差し込む。
「勿論でさ。しかし、クロミニオンなんて普通じゃ絶対に手に入らない金属ですぜ?大体本当にあるかどうかも分からない物質なのに…」
ゼラは大量の書類に囲まれたネウロのデスクに歩み寄ると、ポケットの中から銀白色の欠片を取り出し、ことりと天板に載せた。
ゼラが一歩下がるとネウロはパチンと指を鳴らして書類をどこかへ転送し、およそ五センチ立方ほどのクロミニオンの欠片を摘み上げた。
「しかし、結果として手に入ったのだ。贋物ではあるまいな?」
「それは間違いありませんぜ。たしかに塩酸や硫酸ごときじゃ融けもしないし錆びもしない。
おまけに相当な量の魔力を溜めることが出来るようでさ。今までのものとは比較になりませんぜ。
ただ…」
「なんだ?」
「塩水には弱いらしいんでさ。確かに錆びたり融けたりはしませんが、塩水に触れると格段に脆くなるそうですぜ」
「…そうか」
片目を閉じたり、ひっくり返して見たりして一通り検分が終わるとクロミニオンを置いたネウロは再びゼラに目を向けた。
「ご苦労。退がれ」
「へぇへ。全く相変わらず人使いの荒いお方でさ。ところでネウロ様、こんな超貴金属一体何にお使いになってるんで?」
毎年毎年、超が付くほど希少な特殊金属を求めるネウロを不思議に思いゼラはネウロに訊ねた。
ネウロは一瞬きょとんとしたあどけない表情を曝すと、すぐにニヤリと人の悪いしたり顔でゼラを見遣った。
「ほう。装飾の類は貴様の方が詳しいと思っていたがな、ゼラ。貴様も女の端くれではあるのだし。………一応」
「へっ!どの口が…なんて思ってるわけないじゃないですかぁ!止めてください止めてくださいこれ以上のあしららさけちあいあさあ(伸ばしたら裂けちまいまさあ)!!」
ゼラが一瞬で眼前に迫ったネウロを知覚したときには、もう時既に遅し。
発してしまった言の葉を引っ込めることも出来ずに撤回の意を唱えるが、ネウロの両手はゼラの両の口端を引き伸ばすように親指を引っ掛け、吊り上げ気味に左右に引っ張った。
「フン。元より裂けているだろうが、この口裂け女め」
「…ひろい(酷い)」
「今更だな」
そう言うとゼラの口を伸ばしていた親指を引き抜き、ベシャリと地に落とした。
ゼラは両頬を摩りながら涙目で席に戻るネウロを見送った。
ネウロはドカリと革張りのアームチェアに座り、置きっ放しにしていたクロミニオンを手に取り玩びながら口を開いた。
「ヤコに髪飾りを作ってやっているのだ」
「へ?」
「知っての通り、あれは元々著しく魔力が少ない。恐らく…自己生成している分の魔力だけではあれを生かすことは出来ん」
「そんな…」
何故と問う言葉を、ゼラは無意識に飲み込んだ。
解りきったことだ。
この、脳噛の当主に納まった、まだ青年と呼べる年齢の男が如何に妹に依存しているのか。
本人にその自覚があるのかは定かではないが、傍から見ていれば嫌でもわかる。
きっと、彼は妹を喪ったら生きられない。
「それで、魔力を溜め込む性質の超金属を」
「そういうことだ」
「でも、何で髪飾りなんですかぃ?ヤコ様はそんなに髪を伸ばしてらっしゃらない」
「それは…」
++++++++++
「やあだああ!」
「言うことを聞くのだ、ヤコ。貴様は女なのだから髪が長い方がいいだろう?」
「おかお、ちくちくするからやだあ」
「ヤコ、貴様は髪が長い方が似合うぞ」
「でもやだもん!」
昔、ヤコに髪を伸ばさせたことがあった。
一応でも旧家の子女であるのだ。あんな小雀であっても着飾らせなければならないときも有る。
あれは、これと言って器量のいい方ではなかったが、髪だけは見られたものだったからな。少しでも見栄えがするようにしておかなければならないと、叔父上に言い付けられていた。
しかし、あれは長い髪を嫌がってばかりだった。
褒めても宥めても頑として譲らなかった。曰く疲れるからだと。
奇妙しいではないか。女が容姿を褒められて嫌な顔をするなど。
いや、確かにあれは世間一般の娘たちと比べても群を抜いて変わり者であったが。
どうしても切りたいといって聞かなかったのだ。
だが、我が輩にも髪を切らせたくない理由があった。
別に叔父上の言の所為ではない。あれに元々魔力が少ないことは解りきったことだったからな。
髪には魔力が宿ると聞いて、もしかしたらそれはヤコにも当て嵌まるのではないかと思ったのだ。魔力を貯めておくことが出来るのではないかと。
「ならばヤコ、我が輩が貴様の髪を結ってやる」
「おにいちゃまでもやあ!」
「そうか?折角貴様が今後大人しく髪を結っていたらおやつの回数を一回増やしてやろうと思っていたのに」
「ほんと!」
「我が輩が貴様の食事に関して嘘を吐いたことがあったか?」
「ないー!」
「ならばヤコ、こちらへ来い」
「うん!ヤコ、おにいちゃま、だあいすき!」
「現金な奴だ」
我が輩はこの血と引き換えにヤコの髪を結ってやるようになった。
まぁ、リスクは大きかったがな。常に致死量ギリギリまで吸い尽くされそうになるのだ。あのケダモノ魔女の胃袋ときたら底なしなのだから。
確かに、あの時期は辛かったぞ。お互いに。
我が輩は血が足りなくて授業はいつも居眠りをするようになったし、ヤコもヤコで中毒症状のようなものを起こすようになった。
「ヤコ?どうした、どこか痛むのか?」
「ううん。ちょっとぼーっとするだけ」
「喉は?乾いたか?」
「…んーん。へいき」
ヤコが血を欲しているのは判った。幼いながらにその衝動を押し込めようとしているのも。
だが、我が輩もそれ以上ヤコに血をやるわけにはいかなかった。謎は、いつも喰えるものではないのだ。
それでも、あれが苦しんでいるのを放って置くことも出来ずに手を握っていたのだ。
その手があまりにも冷たくてな、子供のくせに。苦しげな呼吸音がしなければ死んでいるのかと思うほどだった。
「おにいちゃま…」
「なんだ?」
「…どっかいって」
「なんだと?」
「ごめ、なさ、い。でっも、…ヤ、ヤコ、おなか、すいちゃ…」
「!…わかった。明日の朝、起こしに来るからゆっくり休め」
首元までしっかり布団を掛け直してやって我が輩は自室に戻った。
早く布団に潜って寝てしまおうとしたが、いざベッドの前まで来ると苦しげなヤコの様子が思い出されて思わずそれを蹴り飛ばしていた。
石造りの壁に巨大な穴が開いて、粉砕したベッドだったものが吹き飛んで行ったのを無感動に眺めていると、執事が部屋に飛び込んできた。
だが、我が輩を見るなり怯えた顔をして出て行った。去り際に何か言っていたが、果たして何だったのだか。
兎に角、我が輩は我が身の無力さを呪った。
恐らく、あれが人生で初めてのどうしようもない絶望だった。
いっそ、食い尽くされてしまえばいいとさえ思った。
しかし、それではダメなのだ。我が輩が居なければ、あれは、一人では十日と生きられない。
否、そう思いたかっただけなのかも知れないが。
涙なんぞというものを我が輩自身は知らなかったが、出来ることなら泣いてしまいたかったのかもしれない。
「ヤコ」
「おにいちゃま…おはよう」
朝になり、ヤコに食事をさせる為にあれの寝室に行くと、ヤコは予想以上にやつれていた。
頬がこけ、眼窩が窪み、大きな瞳は光を弾くことなく虚ろにこちらを見ていた。
たった一晩のうちに何があったのかと、我が目を疑った。
「朝食の時間だ。昨夜は済まなかったな。しっかりと飲め」
「…うん」
ふらつき、起き上がったヤコの隣に座り、背中を支えてやりながらもう片方の腕をヤコに差し出した。
ヤコはたどたどしい手つきで袖のボタンを外すと我が輩を振り返った。
「なんだ?」
「ううん。なんでもない…」
ちろりとヤコは瞳を揺らすと、再び我が輩の腕を見下ろして覚悟を決めるように大きく息を吐き出した。
その瞬間に我が輩は全てを理解したのだ。ああ、この娘はもはや我が輩の腕を持ち上げることも出来ないのだと。
我が輩は自ら剥き出された手首をヤコの口元に宛がってやった。
ヤコの唇は氷のようだった。
「そら、ヤコ、飲め」
我が輩が促すとヤコはカサついた唇を僅かに開いて、手首に牙を突き立てた。
だが、ヤコの牙はいつまで経っても我が輩の皮膚を突き破ることはなかった。
そんな力も無かったのだ。
我が輩は仕方なく自ら手首を切って再びヤコの口元に持っていってやった。
震える吐息と冷たい舌が傷口を舐めると、ヤコはすぐに唇を離した。
「どうした?」
「いらない」
「なに?」
「もういい。おなかいっぱい」
「貴様…」
我が輩はヤコの首を掴んで布団に叩き付けた。
「ケホッ…お、にいちゃ、」
「何故飲まない?貴様はこれが無ければ生きられぬのだろうが。さあ、早く搾取しろ、我が輩を」
「や、だ」
「ヤコ」
「やだ、だって、だって、おにいちゃま、しんじゃ…」
「我が輩は死なん。いいからヤコ、」
「やだあ!」
ヤコが泣き叫びながら首を振った。ヤコの長い髪が蝋燭の灯りを反射して蜂蜜色の光を我が輩に振り撒いた。
そのとき唐突に気が付いたのだ。
何故、食事すら出来なくなるほどに痩せこけ、生気すら失ったヤコの長い髪は他の全てを、本体であるヤコすら圧倒するほどの輝きに満ちているのだろうかと。
しなやかで柔らかく、艶やかで美しく在れるのだろうかと。
「成程…」
我が輩は右手を刃物に変えると、首を押さえていた左手でヤコのネグリジェの胸元を掴み起こした。
肩を押してうつ伏せに押し倒し、その背に乗り上げ輝く長い髪を無造作に掴み上げた。
折れそうに細いヤコの背が撓って首が仰け反る。
「いたい!おにいちゃまなにするの!?やだやだ!はなして!おにいちゃまやだああっ!」
「黙れヤコ。今、貴様を自由にしてやる」
「いやあああああああっ!!」
我が輩は勢いよく右腕を振り抜いた。
ザクリと音を立て、ヤコの体が布団に沈んだ。
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