白、赤、緑、それから黄色。
窓に打ち付ける雨で輪郭を無くし、光だけが滲んで見えるここは、外界から切り離された異世界のよう。
弥子は冷えた窓ガラスに両手と額を付き、無心に異世界を眺めた。音を立てるもののいない事務所は静まり返っている。
ほぅ、と息を吐くと温い呼気でガラスが曇った。なんとなく気に入らなくて目を眇めると、窓から離れようと踵を返した。
「ネウロ」
居なかった筈の魔人が、トロイを挟んだ向こう側で腕を組みながら此方を見ていた。表情から読み取れるものは何もない。
「どこに行ってたの?」
「貴様には関係ない」
「さいですか」
とりあえず外出の理由を問うものの、バッサリと切り捨てられてしまい言葉を無くす。
………ばかみたい。
弥子は再び窓に向き直ると両手と額を外界との境界に押し付けた。目を閉じて、言いたかった文句の代わりに長い息を静かに吐く。
再び立ち込める沈黙。
切り裂いたのは閃光。そして轟音。
雷がすぐ側まで来ている。
替わって事務所の中は耳が痛い程の静寂が満ちている。
水の中にいるみたいだ。弥子はそう思った。
そう。まるで水槽に沈んでいるみたいに外の世界はぼやけている。囚われた緋金のようにゆらゆらとたゆたい、透明なガラスの外を見つめた。
「何を、見ている?」
ネウロは音も無く弥子の背後に移動すると、その細腰を捕らえた。長身を曲げ、弥子の肩に顎を載せて深く抱き込み耳元で囁く。
「なんにも」
「そうか」
「ねぇネウロ」
「なんだ」
弥子は窓から手を離し、くるりとネウロに向き直った。ネウロはそれに合わせて身体を伸ばし、しかし弥子をその長い腕の中に収めて彼女を見下ろす。
弥子はネウロを見上げ、にこりと笑うと彼を突き飛ばした。
ギシリと小さな音を立てて、ネウロを乗せた革張りのアームチェアがトロイの天板にぶつかった。弥子はネウロのジャケットの襟を掴み、その膝に跨る。
「珍しく積極的ですね、先生?」
「そう?」
ネウロはそのまま弥子を引き寄せようと、回した腕に力を込めた。しかし弥子は応じず、ネウロの胸を軽く押し返す。
「なんだ?」
首を傾げるネウロをクスリと笑い、弥子はそのガラスの緑を覗き込んだ。
「金魚…みたいだなって」
薄く敷いた白砂利と少しの水草、彩りにカラフルなビー玉を入れた金魚鉢。そこにゆらゆらとたゆたう緋金。
捕らわれて、囚われて。狭い空間から歪んだ世界を覗くだけ。それは、今の自分と何が違う?
出遭った瞬間から既に奴隷と称して捕らわれて、日々愛情表現と称して虐待のフルコース。実験、観察対象として囚われているのだから、これでは金魚と何ら変わらない。だから、こんな視界を霞ませる雨の夜は、少しばかり牙を剥く。ほんの僅かな反抗心。勿論只の気紛れな悪戯。しかもそれが彼の嗜虐心を煽ると知っているのだから尚のこと質が悪い。
ホント、どうかしてる。
「なんなのだ?醜い顔を更に見るに耐えんようにして」
「私が醜いとか、ネウロの目がおかしいんじゃないの」
「ほう…。戯けたことを言うのはこの口か?」
自分の思考回路に呆れて苦笑を漏らせばすぐこれだ。私の顎に中指を添えて上向かせると、もう片方の手で下唇をこじ開けて粘膜の縁をなぞる。軽く噛み締めていた歯列を開けば、すかさず黒革の指がねじ込まれる。奥歯の凹凸を確かめように、前歯の裏側を撫でるように、上顎の奥を擽るように、触れてくる。唾液にまみれてぬめる革に噛みつけばニタリ、卑らしい笑顔が浮かぶ。
「魔人を喰らうか、ヤコ」
ああ、こいつは、なんて嬉しそうに笑うのだろう。
この笑顔を壊したくないと思ってしまう私には、もう逃げる隙間なんて1ミリも残っていない。
弥子は首を仰け反らせてネウロの指を吐き出すと、観念したように彼の首に腕を回した。
「ねぇネウロ」
夕刻もとうに過ぎたというのに明かりを点けていなかった薄闇の部屋が、白昼よりも烈しい閃光で白く塗りつぶされた。
「 」
色を無くした刹那、窓を震わせる程の轟音に紛れて掻き消えた言葉は、確かにネウロの耳に届き弥子をその長い腕に絡め囚えた。
白、赤、緑、それから黄色。
明滅するネオンがぼやけて世界の輪郭から切り離される雨の夜は、朱い緋金が緩やかに尾鰭をひらめかせて縁の青い金魚鉢を静かに泳ぐ。
アクアリウムの夜
初稿 090410
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なんか何が書きたかったのかよく分からなくなった話。
プロット?何それ食べられるの?
もっとドライでシリアスな感じになる予定だったのにな…。
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